朝早めに行って、昼には帰ろう。
、、、との目論見は、いともあっさり崩れ去った。
今年で5年目となる「マルシェア(*1)」。
会場に着くやいなや、ブースに釘付けになる。
、、、というか、会場までの道案内(足跡)からして、心を掴まれる。
すべてがオーバースペック、オーバーストーリー。
いやもちろん、「オーバーストーリー」なんて言葉は、ない。
ひとつひとつの出店やグッズ、ワークショップの背景に、てんこもりのストーリーがある。
、、、ありすぎる。
ヤバイ。
ありすぎて、渋滞を起こしている。
正直、出し切れていない。
出店者の学生に話しかけると、「実はこれも昨日つくりました(テレ)」なんてエピソードがざくざく出てくる。
うっかりしていたら気が付かない。
たとえば、手作りアクセサリーがある。
ビーズそのものから、レーザーカッターでオリジナルデザインで切り出している。
たとえば、琵琶湖のカタチのカレーがある。
びわこの形状(型抜きの型)は、3Dプリンターでつくっている。
たとえば、炊き込みご飯がある。
米から育てている。
たとえば、泥だんごづくりワークショップがある。
滋賀県各地からさまざまな色・質の泥を譲り受けてきている。
たとえば、ティピ(テント)がある。
流木をダムから拾ってきている。
、、、万事がこの状態である。(鉄●ダッシュか!)
この豊穣。この上天気。
さらっと、「このにんにく育てました」とか、
「赤こんにゃく入ってます!」とか言っちゃう。
「ここに座ると琵琶湖見えます」とか言っちゃう。
「これを機会に、琵琶湖に興味持ってもらえたら(ニコッ)」とか言っちゃう。
「3Dプリンタのデータ、ダウンロードしたらお家でもつくれますよ!」とか言っちゃう。(いや持ってへんやろ、普通。)
、、、てんこ盛りやろ!あふれとるやろ!
* * *
ストーリーが多すぎて、伝達が追いついてないかに見える、豊かな(過ぎる?)マルシェア。
これは学生がプロデュースするが、学生のためだけのものではない。
内外に開かれたイベントである。
絶好のマルシェア日和、近くの家族連れがたくさん訪れていた。
彼らにどれだけ伝わっただろう?
お昼(琵琶湖カレー、笑)を食べていると、興奮気味の、となりの家族連れの声が聞こえる。
「泥を滋賀県各地で集めてきてるんだって!!」
、、、よかった。
ちゃんと、「ただ楽しい」だけではなく、その底にある<何か>が伝わっているようだ。
(「ただ楽しい」だけでも十二分に素敵であるが!)
出店するのは学生だけではない。
美味しい珈琲を煎れてくれたショップの店長とお話しする。
京都からの出店、とのこと。
「京都も手作り市ってたくさんありますよね。どんなところに出店されてますか」と聞いてみた。
「ここだけです、2年めです。」と照れくさそうに店長。
「うちのお店に来たことがある、という学生さんが誘ってくれて。こんなの(注:POP)もつくってくれました。芸大の学生さんはぜんぜん発想が違いますねえ!」と笑顔。
店長は、売上のために出店したのではないだろう。(行楽シーズン、京都市内の手作り市のほうがもうかるのは間違いない。)
ここでも<何か>が交わされているようだ。
* * *
かくて、予定時間を過ぎ、予定のおこづかいをオーバーし、
今年もまた、たくさんの手作りフードを堪能し、手作りグッズをゲットした。
今年もまた、「成安生スゲイ!」と舌を巻き、ホクホクと帰路についたのであった。
これは、<何か>を世に出す際の、当たり前の、素直な道筋であろう。
実社会ではしばしば、《出す》ところに重きが置かれ、《つくる》ところは、「《出す》ために必要充分なだけ」に留められているのではないか。、、、と思わされるシーンに出くわす。そのほうが無駄がないからだろうか?わずかな《つくる》に、あの手この手でテコ入れして、《出す》を最大化する(膨らます、水増しする?)技ばかりを極めているように見えるときがある。
短期的にはなるほど「効率がよい」が、長期的にはどうだろうか。
あるいは、忘れているのだろうか。
泥だんごをつくるように、「役に立つかどうかはわからないけれど(たぶん立たないけど、笑)、なんか楽しいからつくる」とか。
琵琶湖の岸のびんのかけらのように「なんかキレイだから拾ってみる」とか。
流木を「なんかカッコイイからここに置いてみる」とか。
《感じる》《つくる》がふんだんにあふれ、大渋滞を起こしている、造形大の休日、「マルシェア」の場。
これは途轍もなく豊穣で愉快なことではないか、、、と、あらためて噛みしめた日であった。
*1:“マルシェア”
成安造形大学で開講される「プロジェクト演習科目」の一つとして開かれる、参加型のマルシェ。受講の学生がマルシェをプロデュースし、学生のみならず、滋賀県各地で実店舗を営む人や地域の人に出店してもらう。土台部分は授業であるが、それに収まらない自主的な活動や協力が随所に生まれる。
今年(2019年)は5年め。初代の「マルシェア種」から「芽」「菜」「実」と続き、今年は「マルシェア薫」。私は1年め(2015年)の授業を担当させてもらった。5年経つのか~!(初代の前の、実験開催も含めると6回を重ねる。バウムクーヘンのよう。)
▼ニコニコニュースでの記事(学生がプレスリリースしたのだろう)
https://news.nicovideo.jp/watch/nw6108252
*2:“感じるところ”
今、個人的に「感じる」に注目している。
出口に近い、「考える」「分析する」「判断する」に重きを置かれがちであるが、
その前に、もっとあやふやな段階が相当なボリュームで存在しているように“感じる”。
自覚以前の、漠然とした「感じる」が、さまざまな試行錯誤(実感・自覚)を経て、やがてくっきりとした「意図」へと育っていくのではないだろうか。
実社会(特にビジネス)では、あやふやで「価値以前」とノーカウントにされがちな「感じる」は、さまざまなクリエイティブの、大切なゆりかごに違いない。耕すのだ。